136.さいきんのすうこう

いまさら自分が美術を勉強したかった理由を思い出すと、お恥ずかしいながら、キーワードは「崇高」であって、日常にはない気高いものごとにできるだけ長い時間を触れ合いながら生活を送ることが目標だったのだと思う。
20才くらいの世間知らずで守られた人間にとって、それ以上の想像力は広がらず、また、どのように糊口をしのぐかよりも。

とにかく精神的にとぎすまされて、永遠性や宇宙的な感覚、ピュアさや、純粋な運動やあざやかな色彩、高揚感や深い安心、社会的に善なる感覚、祈ること。そういったものを得ること、知ること、感じることだけが目的だった。
とはいえ、しばらくやっていると、実のところ、アートの世界こそがまさにこうした価値とは対極にある、自我や自尊心や貧富の差や出世や欲望、といったことがらで多くが動く世界であることを知る。
そして何より、しょせん人間がつくったものにすぎない。500年~1000年位を経たものであれば、人の気配も去って、祈りたくなるような造形もあるが、まれにしかない。


そうこうしているうちに(直接には関係のない)仕事をし始めて、10年ほど経つ。近頃、少し忙しさが和らいで1か月ほど経って、すこし頭の中に余裕があって、いま自分が求めている価値とはなんだろうと毎日考えるでもなく考えていると、美術を勉強していて自分には申し訳ないのだけれども、必ずしも美術じゃなければいけないかというと、そうでもないと気付く。

一回りして、「崇高」があればなんでもかまわない。
こどものほっぺたでもいいし、家族三人で食べる神保町のおいしい中華とそのあとのお昼寝でもいい。家の前の植木鉢と水やり後の水の流れでもいいし、暑い日にペットボトルから流し込むエビアンでもいい。窓をあけると揺れるレースのカーテンでもいいし、窓越しに見える五月の木々の動きでもいい。古い石垣の表面のテクスチャーでもいいし、高層ビルの自動ドアの精緻な開閉でもいい。ほどよい温度の純米酒でもいいし、飲みたいときに飲む発泡酒ですらいい。
書き出して分かるように、歳を取って、また、自分の元来の性質もあってか、崇高の閾値は果てしなく下がっている。

坊やがお昼寝から目を覚ました。ぱちぱちとキーボードをたたくのを見て、はてなという顔をする。もうすこしコロコロするみたい。黄緑色のタオルケットにくるまって。

あと一つ、やはり、光とか植物とか水とか風とか、影とか山とか石とか虫とか、総称して自然とか、そういうもののほうが、美術よりも圧倒的に崇高さの本体であって、圧倒的に、曇りがなく、信頼ができて、圧倒的に早い速度で、僕を崇高に連れて行ってくれる確率は高い。
あと、音楽も。鼓膜が揺れる分だけ生理的に強いし繰り返しも効く。

やはり、歳をとったのですね。東京の近くの森を探してばかりおります。
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