140.マスターピースとか

プロダクトデザインの歴史の本とか見てて思うんだが、いわゆるマスターピースとされている椅子とかカトラリーとかにしても、その本の中身一冊分すっぽりなくても、それほど世の中の大勢に影響ない、とも言える。ブランド品を着なくても生きていけるように、旧車の知識がなくても生きていけるように、過剰に詳しいコスメ知識が無くても女をやっていられるように、「生活を形作る」と言われているデザインの歴史だって、業界内の閉じた知っている人は知っているコダワリの議論なんだ。それを当然デザインというのは誰もが行っている日常的な営みなのであって、なんてしれっと言うデザイナーや大学教授を見ると、現実としての百円ショップを見に行ったことはあるかい?といぶかしく思う。(ご当人は自分が高踏的とはつゆほども思わず)

身の丈や心持ちに合わないマスターピースを形式的に所有することは、小学生の自分が父親の出張先の気まぐれで偶然手に入れることができたカシオのデジタル腕時計の嬉しさは越えない。そのカシオはけしてデザイン史のテキストに表されないけれど。ですから、私は社会的なクロニクルとして記述されたデザイン史にはやや疑問があります。小津安二郎の映画を見ていて「このころ、こんな銀座とかショートケーキとかあるとか知らんかったもんなあ」という父親の言葉が響くことと重なる。映画史を見て時代を語れば、語られた時代は映画史の枠線の中にゆがんでいる。
ウォークマンだって、私が手に入れたのはパナソニックの普及版の安物で、日本版イノベーションの代表選手であるソニーの初代モデルなんて全く知らなかったし、ビデオデッキだって僕にとっては日立のマスタックスを父親がある晩どこかからゴトゴト持って帰って来たというものごとだ。
僕にはそういう目線でしかものごとを見られない依怙地なところがあります。

デザインとは身の回りにある当たり前の暮らしであって、若気の至りではない。
ハイデザイン、手仕事、大量生産の三つどもえの真ん中のバランスを好む。
ハイデザインはその表れ方のわずかひとつにすぎない。
ぼくは暮らしや景色やそれに伴う物語が好きなのであってデザインが好きな訳ではない。
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